2015年3月5日木曜日

ヨーガヴァースィティ教材目次:ヨーガ yoga


ヨーガ yoga 教材目次

  1. ヨーガとは何か? What is yoga?
    1. 定義 ;2. ブロードウェイとナロウウェイ;3. ここまでの復習;4. セルフ図解;5. I AM 概観図;6. Narrow Way 図;7. 実修法;8. 原因体の輪廻転生;9. いのちの無言歌;10. まとめ
  2. ヨーガヴァースィティ Yogavercity(総合教材)
    1. 概説はじめに
    2. 食事
      1. 食事のこころえ
      2. きれいな血液の必要条件
      3. きれいな血液
    3. アーサナ
    4. 調息行
      1. 体と心を統合する調息行
      2. ナーディー・しょーだナ nADI-zodhana
      3. プラーナしゅッでぃ prANa-zuddhi & マハーナーディーしゅッでぃ mahAnADI-zuddhi
    5. 全体生命にめざめる瞑想行
      瞑想行定義
      1. アーナーパーナサティ
        自動呼吸への感謝(1)数息観(2)随息観(3)息にもどる(4)自己賢治(5)参考資料(6)アーナーパーナサティと覚触・自分・真我の探究
      2. だーラナー覚触
        (1)定義 (2)だーラナー dhAraNA の対象(3)覚触の詳しい説明1(3)覚触の詳しい説明2
      3. アーサナからだーラナー dhAraNA 覚触へ
        「アーサナからだーラナー覚触へ」のための坐法の例
      4. クリヤー・ヨーガ kriyA-yoga
        a クリヤー・ヨーガの定義b クリヤー・ヨーガ基本行c クリヤーと八識1c クリヤーと八識2
      5. プラーナ・ヴィディヤー prANa-vidyA(生気活性法)の実修例
      6. ヨーガ・ニドラー yoga-nidrA
      7. アートマ・ヴィチャーラ Atma-vicAra
        アートマ・ヴィチャーラ1アートマ・ヴィチャーラ2
    6. 修行生活上の心得
      1. 気づきの一日気づきの一日 (A Day of mindfulness) から
      2. 仕事上の心得仕事と放棄
      3. ウォーキングメディテイションウォーキングメディテイションの出典
      4. 今ここ自己長老経ばッデーカラッタ・スッタ
      5. 禁戒と勧戒
      6. 慈悲喜捨
      7. 平和への祈り
      8. スワーミーダヤーナンダの祈り
      9. 命をみつめて
      10. 法句経から
      11. 信心銘から
      12. マインフルヨーガ
      13. 平和と幸福の14ヶ条
      14. 十ニ時法語
    7. ヨーガと人生
      1. 人生とヨーガの目的
      2. 肉体の経験と執着に気づく
      3. 感覚と感情の経験と執着に気づく
      4. 思考の経験と執着に気づく
      5. 経験=体験記録=記憶の執着に気づく
      6. 入力・出力と自分
      7. 自他共存
      8. 自分とはなにか?
      9. 自分意識の解消へ
      10. 幸せのためのダルマ図
    8. 究極の教えの理解のために
      1. ラマナの[肉体]死体験
      2. 私は体か?
      3. 私は心か?
      4. エゴ
      5. ハート(1)
      6. ハート(2)
      7. ヤマ&ニヤマ yama_niyama
      8. アーサナ Asana
      9. プラーナーヤーマ prANAyAma
      10. プラティヤーハーラ pratyAhAra
      11. だーラナー dhAraNA
      12. でぃヤーナ dhyAna
      13. サマーでぃ samAdhi
      14. ニ種の8段階要約
      15. 教えの要約
    9. 付録
      1. 全一生命=プールナム pUrNam = SELF
      2. 心のきよい人は幸い
      3. ともに・遺言
      4. 般若心経意訳
      5. おわりに
  3. ヨーガ・スートラ yoga-sUtra
    1. 概説問答;対話 0; 1; 2; 3; 4
    2. お守りヨーガ・スートラ歌集
      1〜4章の各節へのリンクが張られています:1章2章3章4章
    3. 梵和逐語朗読・成句唱 1章2章3章4章
    4. 梵和唱 1章2章3章4章
    5. 復習歌
  4. ばガヴァド・ギーター bhagavad-gItA
    1. 概説:すべての行為を打ち捨てて略解1 ラマナマハルシ選 42 節の要約みんなのギーター2章 54-72 節概説略解2 ガンジーの愛誦部略解3 ダヤーナンダ選集 10 節略解4 ダヤーナンダ選集 10 節梵英和略解5 ダヤーナンダ選集 10 節梵英和詳解
    2. みんなのギーター2章:54555657585960616263646566676869707172
    3. ラマナマハルシ選 42 節 (The Song Celestial):唱訳01 (2.1)02 (13.2)03 (13.3)04 (10.20)05 (2.27)06 (2.20)07 (2.24)08 (2.17)09 (2.16)10 (13.33)11 (15.6)12 (8.21)13 (15.5)14 (16.23)15 (13.28)16 (11.54)17 (17.3)18 (4.39)19 (10.10)20 (10.11)21 (5.16)22 (3.42)23 (3.43)24 (4.37)25 (4.19)26 (5.26)27 (6.25)28 (6.26)29 (5.28)30 (6.29)31 (9.22)32 (7.17)33 (7.19)34 (2.55)35 (2.71)36 (12.15)37 (14.25)38 (3.17)39 (3.18)40 (4.22)41 (18.61)42 (18.62)
  5. クリヤー・ヨーガ kriyA-yoga
    概説kriyA-yoga 実修 35 あとがき01 クリヤー kriyA の概念、流派、バーバージーの忠告02 有根身・末梢神経から背骨・中枢神経集中へ03 チャクラサウンズ 05 ビージャ・マントラ bIja-mantra06 メンタル体へのクリヤー07 だーラナー dhAraNA 覚触08 ホーンソー09 煩悩の習気抜きとしての覚触10 善の熏習11 修行と転識得智12 聖賢の智=全体生命智13 一切生命現象/全一(全体)生命意識=無常/唯識14 普遍的智と愛の聖者たち15 クリシナの教え 平等性智〜成所作智16 グルは全体生命の愛のプリズム17 禁止令の解除18 在家への教え:リトリート19 平和と幸福の14カ条20 平和の祈り
  6. ハた・ヨーガ haTha-yoga概説
  7. ヨーガ・ニドラー yoga-nidrA概説
    (こどもと共に)実修1Greenfields を聞きながら]実修2Seven Daffodils を聞きながら]実修3実修4 鐘の音を聞きながら
  8. ヨーガ禅実修解説概説1; 2; 3; 4; 5; 6; 7; 8
  9. 心 mind概説
  10. ガイド瞑想 1996~98概説
    01 脊髄でエネルギーを充電する方法02 You-are-the-Self 103 You-are-the-Self 204 so'ham05 om maNi06 You-are-the-Self 307 一息懸命08 息に集中09 随息真言10 dhAraNA11 一入出息12 自分という人間のシステム13 瞑想法概説14 letting go15 nAda16 だーラナー覚触17 続けて深める18 八識全部が必要19 蔵識の浄化20 一瞬だーラナーの連続365 日休み22 起床前から気づく23 総復習
  11. 2000 年みなべ講習会でのショートメディテイション
    2000.02&06; 2000.07&082000.09&10; 2000.122001.01&02; 2001.03; 2001.06-07; 2001.08-092001.10-12
  12. 2007 年リラクセーション講座
  13. ヨーガ詩要&ソング概説
  14. エピクテートスの教え概説
    00 はじめに01 権内と権外02 求不得苦と怨憎会苦03 お気に入りは壊れる04 入力・出力での気づきへ05 思いが苦悩06 自慢を自慢しない07 船長はどこにいる?08 人事を尽くして天命を待つ09 肉体と意志10 出会う「自分」の気づき無さ11 万象の源12 平静不動心の売値13 権内の一時一事に徹する14 願望奴隷15 欲望を投げかけるな16 生死を喜び嘆くは17 宇宙舞台の人生芝居18 縁起は権外19 自由に到る唯一の道20 グルグル回りという言葉の独楽21 我が輩の主人公22 真理の探究者は馬鹿にされる23 媚び無しの権内生活24 権内の美徳が無ければ権外の貢献は貢献にあらず25 代価の意味26 意見を異にしていない事27 善悪は人間の分別観念28 心を乱す愚かさ29 権内者と権外者は非両立30 関係性はシンプルに31 自然への感謝32 占いは権外33 生き方の自己規定34 快楽と結果のシミュレーション35 キョロキョロ36 離接・接続37 力量を越えた何か38 自身の指導能力39 欲望のサイズ40 心の悶々はどこで?41 全注意は心に向け給え42 思い43 交渉術44 真の所有者は?45 是非善悪46 秣は食べるべし47 自慢苦行は苦行に非ず48 権内の主人公意識49 心は原書50 習気のアク抜き軽安作業51 ソークラテースたらんとして52 真理の探究実践53 運命神とは54 キーワード
  15. ヴィヴェーカーナンダの教え概説
  16. 黒板から(旧の木阿弥|幸せのカラクリ|入力・出力|無執着行 I_AM 1|無執着行 I_AM 2)

ヨーガヴァースィティ Yogavercity 要諦


  1. はじめに

    1. 簡潔な要約資料

       ヨーガヴァースィティ Yogavercity の教材はかなりの容量で多岐にわたっているので、簡潔な要約資料を作って概要を把握しやすいようにしてみた。(さらなる簡約版はYogavercity 要諦簡易版

  2. 農あるヨーガ生活

    1. 人生の意義

      この世に誕生したのは幸福 100%覚智現成 Self-Realization するためだが、その修行中に身体を維持する食生活はミターハーラ mitāhāra मिताहार が望ましい。できるだけ作って食べるにこしたことはないが、自給できない分を含めて菜食が好ましい。ヨーガ修行の要諦は、意識 mind をその出所の純粋識 cit चित् (pure consciousness) = 真実在 sat (Self)帰還(回帰)させる一点にある。


      肉体の眼を眼根、耳を耳根などと言うが、眼根の識を眼識と言い、これは視覚(神経)に該当し、耳識なら聴覚(神経)に該当する。眼根→眼識や耳根→耳識という順路で取り込まれた外界対象の情報は、五根・五識を管轄する意根(大脳)で判断処理される。意根(大脳)は感情・思考のすべてを統括しているが、その識を意識=第六識(マノー・ヴィジニャーナ mano-vijñāna)第三能変と言う。意識が朦朧とするなら、意根(大脳)が酸欠状態になったり、考え過ぎて判断作用が鈍麻したりした状態を指し、意識を失ったと言えば、生命維持機能を保持しながらも、思考判断機能を停止して身体も動かなくなった状態を指すが、ある意味では熟眠 suṣupti 状態に似ている。

      目覚めている時の意識は、外からの情報処理に対応すると共に、記憶の蘇りに基づく思考活動をするので、それらの活動で意根(大脳)は疲れる。それでコーヒーや茶などを飲んだり、ガムをかんだり、人によっては喫煙・飲酒したりするが、意根(大脳)の疲労が限界に近づくと眠気を催し、日中であれば居眠りしたり、それで足りないぶんは夜の睡眠で疲労回復を計るようになっている。坐禅瞑想をする人たちで思いの手放し(覚触)がよく効くなら、睡眠時間が一般人よりも少なくなるのは、意根(大脳)の疲労度が低いからである。意根(大脳)も筋肉も肉体の一部だから、使えば疲労物質を生じるのは共通しているが、使わないと発達しないとか衰弱するという問題を抱えている。また、過度・無理な負荷は組織損傷・損壊を引き起こす。

      意識=第六識(マノー・ヴィジニャーナ mano-vijñāna)と言われ、その奥には第七識(末那識 manas)・第八識(阿頼耶識 ālaya-vijñāna)=原因体 kāraṅa-śarīra कारणशरीर があるが、一般の人たちには馴染みにくい用語なので、別な表現で意識の奥と出所を説明してみたい。意識は感情・思考の統括を行なっているが、当人にしてみれば他人の感情・思考ではなく自分の感情・思考なので、私の 'my' 感情・思考を統括する場である。他人の感情・思考に対して自分の意根(大脳)が持つのは、すべて私の 'my' 感情・思考になるので、意識というのはすべてジブンゴトである。つまり、自他の世界が有ると思っていても、自分の意根(大脳)は世界を私の 'my' 意識で処理するので、世界というものも我が世界になってしまう。ここを煮詰めて考察すると、有るのは自分と切り離された別世界ではなく、自分が知覚認識する我が世界が自分の中にあるということになる。

      たとえば口に入れる前とか口の中に入れている間は、米・ジャガイモ・バナナなどはそれぞれ米・ジャガイモ・バナナだが、胃袋に達してしまえばそういう分別を意識することはまず無く、私の 'my' の胃袋の中の消化処理食物である。口ではなく、眼・耳から入ってくる情報は自分の身体の外にあるが、それが眼識・耳識を介して意根(大脳)で処理されると、私の 'my' 知覚認識・感情思考になり、食物が胃袋という自分の中で処理されてエネルギー転換されるように、外の情報も意根(大脳)という自分の内でエネルギー転換されて、必ず私の 'my' というタグ tag が付いた感情思考の記憶として、私の 'my' 記憶袋に保存される。私の 'my' というタグは、第七識(末那識 manas)で付けられると解釈している。

      記憶袋は第八識(阿頼耶識 ālaya-vijñāna)=原因体 kāraṅa-śarīra कारणशरीर に該当するが、そこで記憶が増えるということは、普通に言えば大脳の皺がクシャクシャになっていくことである。その結果優秀な科学者や作家などになる人たちもいれば、著名な政治家や経営者などになる人たちもいる。クシャクシャがグシャグシャになって、ムチャクチャな人生を送る人たちもいる。記憶袋に溜まった大脳の皺のクシャクシャやグシャグシャのデータは、ハードディスク(記憶装置)のデータがディスプレイで認識投映)される形態になってハッキリするように、意根の意識に達するとクシャクシャやグシャグシャの形態になってハッキリする!グシャグシャがハッキリすると、ヒステリーやら自暴自棄が体現されることが多い。本人にも社会にも訳の分からない殺傷事件などが起きるのが多くなってきているが、その原因は本人の記憶袋のクシャクシャ・グシャグシャのデータにあり、その元の情報は外から入ってきたものであるから、社会という観念お化け世界にもクシャクシャ・グシャグシャのデータが横溢(おういつ)しているということである。

      ここまでを簡単に図式化すると、外から内に向かう方向としては
      外界→五根・五識→意識→私の 'my' →記憶ということになる。「私の 'my' が私 'I' からの派生であることについては何度も書いてきたが、英語の my が I (主格)の変化形(所有格)であることから類推できるだろう。誕生の意義の補足説明で出したラマナマハルシの二つの図解の下のものに、意識 mind の上位にエゴ ego = 私の 'my'・私 'I' が置かれているが、私 'I' = マハト mahat = projected consciousness 投映された識(swollen seed ふくらんだ種子)なるものが置かれている。個人のエゴの親分である宇宙エゴがマハト mahat であることについては前に書いている(All is One と一者)が、それはまた純粋識 cit चित् (pure consciousness) = 絶対(者) Absolute = 真実在 sat (Self) からの第一派生とされている。今度は現象源から派生順に図式化してみよう。

      真実在 sat (Self) →マハト mahat →私 'I'・私の 'my'→意識 mind →五識・五根→外界
      意識(アタマ)を真実在 sat (Self) に帰還せしめれば平和 śānti (peace)至福 ānanda (bliss) の享受=解脱なのだが、いくら努力しても凡人は私の 'my' から離れられない。そして私 'I' = 私 'I' という思い ahaṃkāra; aham-vṛtti (I-making, I-thought, ego) の発見もまずできない。それはマハト mahat からの派生であるという。不生不滅にして常住普遍・不変の真実在 sat (Self) から最初に出るのだから、マハトなるものは現象波動の起点と言えるだろう。この波動がひいては凡人のアタマの波立ちにもなっている!なんてありがた迷惑な大親分なんだろう。親分が号令をかければ、子分は飛沫(しぶき)を浴びながら波動の大海(現象世界)で航海・後悔を続けるよりほかはない…<花の命は短くて苦しきことのみ多かりき>とか、<人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし>とか、<智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。>なんてことを思いながら。それではツマンナイ、ということで、私の 'my' という執拗な先入観念・固定観念を崩しにかかるが、これが修行のスタート点である。

    2. 農あるヨーガ生活


      基本的には、天然農法家の藤井平司氏が唱道する“作って食べる真人間”であり、それと共にラージャ・ヨーガ rāja-yogaアートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)の修行をする生活を総合的に言い表わした、ヨーガヴァースィティのキーワード。農あるヨーガ生活の基本になるのは栽培・料理・瞑想自切--瞑想=幸福 100% の実現のため瞑想ではどこまで自切するのか?瞑想・観想の迷走感想だが、ラマナマハルシが言うように、人間としてこの世に生まれて来たのは真理の覚智現成 Self-Realization (ātma-sākṣātkāra) のためであるからには、それを完成させるまでの生き方として、五蔵(五つの鞘)pañca-kośa の食物鞘 annamaya-kośa を維持養育するために、野菜・穀物・果樹などの植物という命を栽培して、それを摂取するために理をもって料り[=自然のことわりに則って食事を調え]、生気鞘 prāṇamaya-kośa・意思鞘 manomaya-kośa・理(性)智鞘 vijñānamaya-kośa・歓喜鞘 ānandamaya-kośa の複合体を取りまとめている自分意識の発見と解消のために修行するのが、いまだ我身見我はこの身なり変袋着脱意識に囚われた凡人にとって最善の修行生活であるという信念に基づいて提唱されたもの。「真理は一つ道は無数」だから、「農ある ヨーガ生活」がベストと言うつもりはないが、余計な物事に関わる無駄を排するという観点からは、真理の覚智現成 Self-Realization をゴールとした場合の、修行者にとってのシンプルライフ自然なシンプルライフの聖者たち憧憬のシンプルライフ実践のシンプルライフであることは間違いない。

      私が農あるヨーガ生活私が農あるヨーガ生活を続ける理由「農あるヨーガ生活」の意義再説というライフスタイルを三十代から三十年ほども貫いているのは、ひとえにアートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)のためであり、それをもっともよく教示してくれているラマナマハルシの教えに従って今生を全うしたいからである。ラマナマハルシはもちろん「作って食べる」とは言っていないが、カレは道元禅師のような『典座教訓』を著わす理論家ではなく、実際に見事な典座でもあったし、「農と食」には造詣の深いであった。だからアートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)だけに専念して、農[=作って食べる業(ワザ)]なんかどうでもいいという態度は取らない。もちろん農はネバナラナイというものではない。私にとって農は「ネバナラナイことはない人生の休日」に近い楽しみでもあるから、高齢になっても続けていられる。

    3. リーチング agro-leaching

      藤井平司氏唱導の天然農法の栽培原理の一つ。

      • “葉には、物質の生産と流亡と再吸収と、それぞれのバランスについてダイナミックな役割がある…リーチングは、作用としては、物質の「吸収--溶解--ろ過流亡--再吸収」という植物自体が健康な生きざまをつづけるための自給体制である…葉緑素が太陽光を吸収する作用は一瞬である。また、葉面に接触した水は、アルカリ塩を含むこと、水に浸した葉から無機養分が溶出することなども、ほとんど瞬間的に作用する。これらは単なる現象では考えられない。緑葉が持つ本質である…測定することのできない本質を十二分に見極めること…”(『図説 野菜の生育』)
      • 植物の葉の上を雨がスーっと流れていくその時に、体液とともにアルカリ溶液となって下に落ちる。この落ちた水滴は、植物の生長にとって、一番大切なチッソとカルシウムを含んでいる。いろいろと場所により、あるいは条件によって、ほかの成分も含んでいるんです。しかし、ほかのものは、根からいろいろの操作で摂取することができる。一番肝腎なのは、生長を司っているチッソ。動物でいえば、蛋白質です。チッソ=蛋白質です。それから、体に体力をつけているのはカリです。この二つの養分[=チッソとカリウム]はあるようにみえても、簡単に吸収しえてないんです。もし酸性であればチッソは吸えないんです。今までの栽培技術では石灰をふってワザワザ地表の表面だけでも中和させていたんです。葉面からは、わずかなアルカリ性の溶液として落とすから、チッソもカルシウムもこれで吸収できるんです。カルシウムというのは、どうしても必要な成分でありながら、これも簡単には吸収できない。カルシウムは高温・乾燥でチッソ過多の条件では吸収力が低下する。そこで結球した野菜の外の葉や大根の葉を食べたらいけない…現在はチッソ過多の栽培条件ですから、硝酸塩の蓄積が多くて、それじたい、貧血の元凶になっている…(『甦えれ!天然農法』pp.157-158)
      • …日本列島の気候の特徴(多雨多湿)とレイン・シャワーの効果とが栽培技術の基本的前提条件なのに、今は“雨を捨てる”施設栽培が一般化して水を粗末に乱用している。そのことは“雨の真似事”をしながら、その反面に「施肥技術」が発達し、さらに「農薬散布」が必要となる。こんな栽培技術で<食べもの>ができると思うか。事は重大です。(p.159)
      • 植物は人間に肥料を与えて下さいというような依存はしておりません。人間は植物がなければ生きていけないくせに、植物を差別している…栽培は植物の自給自足を基礎にして、その実体を知って作物を育てますと、この溶液、落ちた溶液はアルカリ性の溶液でチッソとカルシウムと複合して土のなかにしみます。そうすると太い根にふれます。太い根にふれると、すぐにそこからその養分を食べるために根毛のある、いわゆる根冠がピュッ、ピュッとふき出してくるんです。それがこの落ちてきた養分を吸い上げる(根というのは太い状態では何も吸収しない、食べてもいない。口の役目を果たしてない)。この操作によって、だんだんだんだん、土地の表面へ表面へと食べるために根が上がってくる。肝腎の根の真下のところは、空洞になってくる、養分がいかない…(pp.159-162)
      • だんだん植物が成長してきますと、左右へアルカリ塩が落ちてきます。落ちたやつが溜まります。これを農家の人は肥花が咲いたと言ってるんです。この落ちている肥の花を上へあげるのが土寄せです。そうするとこれが次の雨で沈んでゆく。作物はいずれ大きくなって収穫する。そのまえに次の作物を寄せ植えをしておく。寄せ植えをしておいたところへ、肥花のある土をもどす。そうしますと、寄せた土にうずまった肥花は元肥になるわけです。こういう形で土は耕さずに、動かしていく。これを“土が動く”という。(p.162)


      • …水というのは生水が体に一番いい。いいのですが、夏はそのまま飲んだらお腹をこわすといってたんです…生水を飲む時には必ず木の葉を緑の多い季節の木の葉を水に浮かす…これは単なる風流ではない。葉緑の亜硝酸で水を消毒し、葉から無機養分を溶出してミネラルウォーターにしていた。(p.168)
      • 一枚の葉の上に水がかかって、それが養分のグルグル回りをするというダイナミック働き…森に入ったとき“ああ、空気がおいしい”というのが葉からのリーチングの効能です。(p.169)
      • リーチングは、作用としては物質の<吸収ー溶解ーろ過流亡ー再吸収>という植物自体が健康な生きざまをつづけるための自給体制です…葉緑素が太陽光を吸収する作用は一瞬です。また、葉面に接触した水は、アルカリ塩を含むこと、水に浸した葉から無機養分が溶出することなども、ほとんど瞬間的に作用します…干天に灌水をつづけても、一向に野菜がよくならないのに、ほんの一雨で生きかえったように野菜はひと雨ごとに元気になる…作物にとって、リーチング現象の大小多少は、人為的な施肥技術や施設栽培で埋め合わせができません。それ以前の基本的な問題です。(pp.171-172)


      • https://youtu.be/bq3q1-GV0Gs

        第 12 図 上下に浸透する土壌水流の断面模式図


        https://youtu.be/2rOWvtbHbDA

      • 吸い上げた養分は葉のふちに水滴としてたまるのです。葉先のほうの水滴は下へ落ちる。葉の元の水滴は生長点の所に溜まるわけです。日が上がってしまうとかわいてしまうので、日があがるまでに自分の体を伝うて、下へさがってくるんです。この液は養分を含んだアルカリ溶液です。アルカリ溶液の中で一番大切なのはカルシウムです。カルシウムの溶液が根のところまでくると、根はさらに側根の発根促進作用をする…根は養分をすってそれが生長点のところへ上がってくる、そして葉を広げてゆく。その連続が生長です…(『食生産の原理』pp.112-113)
      • リーチングして養分がどんどんうねに落ちるとするならば、このうね間にリーチングされた養分がたまります。そうするとここへもお日さんが当るから、ここの養分のチッソにまた葉面と同じように、微生物が繁殖をはじめる。空気によくふれる時には、緑の苔がうね間にはえます。それを<肥花>という。なぜ肥花というか、これが肥料になるからです。農家の管理作業として、土寄せをする。土寄せとは、この肥花を、うねの上へ乗せることを言う。こうしますと、この肥花が流れていってしまわずにうね土の中へ浸透します。土が肥料分を抱いてくれます。これが施肥、つまり追肥になるんです。もしすぐにこのうね間へ何か植えるという予定があるならば、このうね間の肥料を埋めればいいわけです。下へ埋めておいてその上へ作物を植えこむなり、タネを播くなりすればいい。それが元肥になるわけです…作物の生きている場には、ちゃんと全部材料がそろっているということです。(『食生産の原理』p.243)
      • このグルグル回りしてる養分の中で一番大切なのは、実はチッソじゃなしに、一番大切な養分はカルシウムなんです。カルシウムというのは、体をシャンとさせるために、動物では骨をつくります。植物もカルシウムによって、次の生長へのダッシュをかけるわけです。それは根には新しい根をふかす、新しく側根がでる、横根を張る、その刺激を、カルシウムはする、と同時にカルシウムを吸収するんです。葉から落ちたカルシウムは、古い根に掛っても、そこから新しい根がピュウっと吹き出すんです。そして即吸収となるんです。地上部の場合には、地面にたまった水湿が根を呼んで、カルシウムの力によってピューッと新根を吹くという活力を出すんです。(『食生産の原理』p.247)

       これらの説明を実際の栽培に活かす工夫が、おいしい健全な野菜作りにつながる。雨を受け落とした流亡物質とその再吸収が野菜の生長を促進するのなら、そのサイクルを妨げずに有効化する畑のレイアウトや作業について工夫するのが賢明。ジャングルや雑木山が豊かに天然更新するのは、“自然なリーチング”が起きているからだろう。 畝(うね)で生長している野菜の葉が受け落とした流亡物質は、畝に落ちるものもあれば、畝間(うねま)に落ちる分もある。畝間に落ちた“緑の肥え花”は折々の土寄せで作物の株元に添えもどしてやるが、そうすると畝間に生えた草はおおかた削られてしまう。このようにしていると、畝間を草刈りするという事態にはほとんどならない。しかし、畝の上で作物と共に生長している草はそのままなので、それぞれのリーチング作用による自給体制と、お互いのリーチングの複合作用(かけ合い)が起きる。(このリーチングの複合作用は、ジャングルなんかではものすごいだろう。)果樹の周辺に移植した野菜がかなりよい生長を見せることがあるが、果樹のリーチングの「おこぼれ」のおかげもあるのかもしれない。広めの畝に同じ野菜あるいは別種の作物を2列(2条)に栽培している場合には、やはりリーチングの複合作用が起きる。畝の広さと列(条)数や作物の種類の組み合わせなどに関しては、これといった本は目にすることもないので、自分の畑であれこれ試してみるよりほかない。 野菜が「ひとり育ち」する原理の一つとして「リーチング」には大いに考えさせられるが、リーチングの複合作用にもまた感心させられる。この問題は、人間の自立とお互い様・お蔭様について考える時にも、たいへん参考になる。

  3. ヨーガの修行の精髄

    1. yoga-sūtra 1.2: ヨーガとは 私心の 活動終止 Yoga [or union] (yogaḥ) is the complete cessation (nirodhaḥ) of 'my' thinking (vṛtti) of 'I' mind (citta). [Thence I AM without 'Who am I?'.]

      補完訳
      1. ヨーガは yogaś योगश् [< yogaḥ योगः] (yoga is)
      2. 自分という自ら分別している仕切りの中に刷り込まれ記憶に基づく、[個人的](全八識)の citta चित्त (mental)
      3. 活動の vṛtti वृत्ति (movement/activity)
      4. 究極である“私は誰か? Who am I? (ko'ham)”という質問・疑問・疑念完全終止 nirodhaḥ निरोधः [< nirodha निरोध] (termination) による自分という仕切り枠の解消=唯識(純粋識)・命は一つ(全一生命)の覚智である

      Talks with Sri Ramana Maharshi No. 82 (6th October, 1935):
      When the senses are merged in darkness it is deep sleep; when merged in light it is samādhi. Just as a passenger when asleep in a carriage is unaware of the motion, the halting or the unharnessing of the horses, so also a jñānin in sahaja-samādhi is unaware of the happenings, waking, dream and deep sleep. Here sleep corresponds to the unharnessing of the horses. And samādhi corresponds to the halting of the horses, because the senses are ready to act just as the horses are ready to move after halting. In samādhi the head does not bend down because the senses are there though inactive; whereas the head bends down in sleep because the senses are merged in darkness.
      In kevala-samādhi, the activities (vital and mental), waking, dream and sleep, are only merged, ready to emerge after regaining the state other than samādhi.
      In sahaja-samādhi the activities, vital and mental, and the three states are destroyed, never to reappear. However, others notice the jñānin active e.g., eating, talking, moving etc. He is not himself aware of these activities, whereas others are aware of his activities. They pertain to his body and not to his Real Self, sva-rūpa. For himself, he is like the sleeping passenger--or like a child interrupted from sound sleep and fed, being unaware of it. The child says the next day that he did not take milk at all and that he went to sleep without it. Even when reminded he cannot be convinced. So also in sahaja-samādhi.
      suṣumnā pare līna (suṣumnā is merged in para). Here suṣumnā refers to tapo-mārga (the way of tapas; yoga-mārga) whereas the para-nāḍī refers to jñāna-mārga.

      感覚が暗黒に融合すれば睡眠光明[=‘自分’の出所=現象源]に融合すれば三昧である。馬車の乗客[=私 'I'が眠りこんで、馬たちが走っていたり・止まったり・馬具を解かれたりしているのに気づかないように、自然(じねん)三昧(サハジャサマーでぃ)にある解脱智者は出来事や己の目覚め・夢・熟眠に気づかない。この喩え話での熟眠は馬具の解除に該当する。三昧は馬たちの停止に当たるが、それは馬たちが停止しても走る準備ができているように、三昧者の感覚(意識)は機能停止していても活動待機状態にあるからである。三昧においては感覚(意識)が活動停止していても待機状態故に頭は垂れ下がらないが、睡眠においては感覚(意識)が暗黒状態に沈潜しているので頭は垂れ下がる。
      単独(無分別)三昧(ケーヴァらサマーでぃ)では、三つの活動である目覚め・夢・睡眠は[ハート hṛdaya(セルフの居所)に]没入しているが、その三昧からさめれば[自分意識(エゴ)と共に]甦るのを繰り返すだけである。
      自然(じねん)三昧(サハジャサマーでぃ)では、三つの活動である目覚め・夢・睡眠は[自分意識(エゴ)と共に]破壊(解消)されていて甦らない。しかしながら他者たちは解脱智者が食べたり・話したり・動いたりなどの活動をするのを見ている。[でも]解脱智者本人はそれらの活動に気づいていないし、他者たちがそれらの活動に気づいているだけである。それらの活動は肉体[=私 'I'・私の 'my'に属するもので、本性なる真実在 sat (Self) [=「私-私 'I-I'」]にではない。カレにしてみれば馬車(乗物)での眠っている乗客のようであり、あるいはぐっすり眠っている幼児が無理やり授乳されてもそれに気づいていないようなものである。幼児は次の日、眠ってしまったのでミルクを飲んでいないと言うのである。[ミルクを飲んだことを母親に]思い起こさせられても、幼児は納得しないのである。自然(じねん)三昧(サハジャ・サマーでぃ)とはそのようなものである。「スシュンナーはパラに合一融和する。」ここでスシュンナー[・ナーディー] suṣumnā[-nāḍī] [に進入するだけの]はヨーガなどの苦行の道 tapo-mārga を意味[して単独(無分別)三昧 kevala-samādhi を可能に]する[だけで自分意識(エゴ)は破壊されない]が、パラ・ナーディー para-nāḍī (アートマナーディー ātma-nāḍī)* は真智の道(ジニャーナ・マールガ jñāna-mārga)を意味[しスシュンナー・ナーディー suṣumnā-nāḍī からさらに進入して自分意識(エゴ)が破壊されるハート (12) hṛdaya (主客未分の核心・現象源)に安住する。
      * Talks with Sri Ramana Mharshi No. 247 (8th September, 1936):
      śrī-bhagavān said that the tiny hole in the Heart remains always closed, but it is opened by vicāra with the result that 'I'-'I' consciousness shines forth.

      ラマナマハルシは言った。ハート hṛdaya に極微な穴があってふだんは閉じられているが、アートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)を完遂した者の場合それが開いて、「私-私 'I-I'」(セルフ Self)が輝き出す。[この場合のハートは第八識=原因体 kāraṅa-śarīra कारणशरीर と同義になり、記憶・習気(ヴァーサナー vāsanā वासना。記憶に染み込んだ習癖)の場でもあるが、極微な穴を閉じているのは自分意識(エゴ)で、それが真実在 sat (Self) を覆い隠している。自分意識(エゴ)が解消されると、私-私 'I-I' = セルフ Self はアートマナーディー ātma-nāḍī と呼ばれるエネルギーの通り道を経てジーヴァ jīva (個的生命)を光明化する。個人の暗闇を照らす光明体験とはこのことである。]
      ハートの極微な穴が開いて真智 jñāna の光明が輝き出す時の経験をラマナマハルシは次のように述べている

      あなたが内奥へ探求していくと、底無しの深淵にでも落ちたように自分を見失うが、その時始終あなた[=自分=エゴ = 'I'の背後にいたア−トマン ātman である真実在[=全体宇宙生命 'I - I'(アイ・アイ)]が、あなたをつかまえ['I' = 個的生命が 'I - I' = 全的生命を覚智す]る。それはどういうものかというと、[在るのは全体宇宙生命としての]ワタシ[だけという真我]純粋識の絶え間の無いフラッシュで、言うならば、あなたはソレ[の実在]に気づき、それを実[際に][受]し、それ[の 'I - I'、'I - I'... という音=オームを聞いたりして感覚的にわかるのである。これが私が“アハンスぷールティ aham-sphūrti [= aham-sphuraṇa]”[=私・鼓動光輝=真我の鼓動光輝=全体生命の脈動光輝=オ−ムの響き]と呼ぶものである。 (Kapali Sastri: Sat Darsana Bhasya & Talks with Maharshi, pp. xx, xxi)
      When you go deeper you lose yourself, as it were, in the abysmal depths, then the Reality which is the ātman that was behind you all the while takes hold of you. It is an incessant flash of I-consciousness [= 'I-I'], you can be aware of it, feel it, hear it, sense it, so to say ; this is what I call aham sphūrti.

      補足説明


      この 1.2 の一節はヨーガ・スートラ yoga sūtra 全章全節のすべてである。この一節だけでヨーガ(1. 定義 ;2. ブロードウェイとナロウウェイ;3. ここまでの復習;4. セルフ図解;5. I āM 概観図;6. Narrow Way 図;7. 実修法;8. 原因体の輪廻転生;9. いのちの無言歌;10. まとめの修行はできるが、それにはグル(解脱真智者)の導きが必要であり、それがかなわなければ、それまでに成さなければいけない学修1.01 の「参考」を参照]をする必要がある。

      Shri Brahmananda Sarasvati: The Yoga Sutras of Patanjali では、1.2 は次のように英訳されている:
      Yoga or union is the cessation of the thinking mind: "Who am I?"
      私は誰か?Who am I?”と考えざるを得ない疑念が払拭されること、それがヨーガであるという趣旨である。もっと積極的な言い方をするなら、“私は誰か?Who am I?”を究明して解脱を果たすこと、である [the cessation of the thinking mind: "Who am I?" = an incessant flash of I-consciousness = 'I-I']。
      この事の証としてラマナマハルシは次の金言を引用した:
      suṣumnā pare līna (suṣumnā is merged in para = the Supreme or Absolute Being).
      「スシュンナーはパラ(真実在 Self)に合一融和する。」

      この金言を自ら実証するには、それこそ輪廻 saṁsāra संसार の迷妄ジャングルを彷徨い、熱誠な修行をどれほどしなければいけないことか?次のムービーで説明されている外界現象に人は感覚を奪われ、迷妄(妄夢)ジャングルを百代の過客なる果てしない時間トンネルの旅しなければいけないのである…


      感覚を束ねる意識意識のUターンではなく iTurn意識(現象)と純粋識(現象源)図説意識を心拍に向けるピロラオスの真意は?が外から内に向かうまでには長大な時間がかかり、意識が内に向かうといってもパラ・ナーディー para-nāḍī (アートマナーディー ātma-nāḍī) を目指し“知る→わかる→(試行錯誤→)できる→変わる”に至るまでには、言葉で言うなら永遠に近い待ち時間がある、と言わざるをえない。たとえばラマナマハルシは次のようなアドバイスをしている。

      Talks with Sri Ramana Maharshi No. 196 (9th June, 1936):
      The perception of 'I' is associated with a form, may be the body. There should be nothing associated with the pure Self. The Self is the unassociated, pure Reality, in whose light, the body, the ego, etc. shine. On stilling all thoughts the pure consciousness remains over. Just on waking from sleep and before becoming aware of the world there is that pure 'I'-'I'. Hold to it without sleeping or without allowing thoughts to possess you. If that is held firm it does not matter even though the world is seen. The seer remains unaffected by the phenomena.

      私 'I' という思いは(現象)形態、大方は肉体と結びついている。純粋真実在 sat (Self) と結びついているものは何も無い。セルフはいかなる現象とも結びつかない純粋実在(識)で、その光明に照らされて身体・自分意識(エゴ)などが現象している。[私 'I' という思い ahaṃkāra; aham-vṛtti (I-making, I-thought, ego) と共に派生する]すべての思いを鎮めれば、純粋識 cit だけが残り実在する。睡眠から目覚めへ移るまさにその一瞬、対象を知覚認識する直前に、その私-私 'I-I' [(セルフ Self)を覚智できるチャンス]がある。その一瞬に眠りにもどったり、[肉体を知覚認識所有しているという習慣]思考にも陥らないで、「私-私 'I-I'」(セルフ Self)に釘付け(磔)になるがよい。私-私 'I-I' (セルフ Self)に堅住するなら、対象世界が見えようと問題は無い。観照者は[知覚認識する]現象に影響されなくなる。

      睡眠から目覚めに移る瞬間に意識が向くようになるまでに、人はどれだけの輪廻 saṁsāra संसार を経なければいけないことか!このような実修・学修を経てこその自分意識の発見と解消であり身心脱落であって、自意識に囚われないとか、エゴを捨て去るとか、観念論の説教ではかなわぬのが真理の覚智現成 Self-Realization である。そのためには、解脱を果たしていない求道者であるうちは、目ざめている間にどういう修行をしなければいけないのかをハッキリ念持できるようにならなければいけない。ラマナマハルシは次のように教えてくれている。

      Objectless_I 1 無対象の自己1


      https://youtu.be/5RfWFxvTafQ
      Talks with Sri Ramana Mharshi No. 314 (3rd January, 1937):
      Sleep is said to be ajñāna (ignorance). That is only in relation to the wrong jñāna (knowledge) prevalent in the wakeful state. The waking state is really ajñāna (ignorance) and the sleep state is prajñāna (full knowledge). prajñāna is brahman, says the śruti. brahman is eternal. The sleep-experiencer is called prājña [= intelligence]. He is prajñānam in all the three states. Its particular significance in the sleep state is that He is full of knowledge (prajñāna-ghana [= nothing but knowledge]). What is ghana? There are jñāna and vijñāna. Both together operate in all perceptions. vijñāna in the jāgrat is viparīta-jñāna (wrong knowledge) i.e., ajñāna (ignorance). It always co-exists with the individual. When this becomes vispaṣṭa-jñāna (clear knowledge), It is brahman. When wrong knowledge is totally absent, as in sleep, He remains pure prajñāna only. That is prajñāna-ghana...
      "tripurā-rahasya" and other works point out that the interval between two consecutive saṁkalpa-s (ideas or thoughts) represent the pure aham ('I'). Therefore holding on to the pure 'I', one should have the prajñāna-ghana for aim, and there is the vṛtti present in the attempt.

      睡眠は無知 ajñāna であると言われているが、それは目覚めの状態において優勢な誤った知識との関係でしかない。実は目覚め jāgrat のほうが無知であり、睡眠状態は悪見という考え事が無い]正智 prajñāna である。正智 prajñāna はブラフマンである、と聖典は言っている。ブラフマンは永遠[の真理]である。睡眠者はプラージニャ prājña (a wise or learned one) と言われる。カレは三つの様態(目覚め・夢・睡眠)すべてにおいて智者である。睡眠状態におけるその格別な意義はと言えば、カレは正智に満ちている prajñāna-ghana (nothing but knowledge) 点にある。ghana घन (full of/complete/nothing but) とは何か?[知識と言われているものには]ジニャーナ jñāna (knowing) とヴィジニャーナ vijñāna (discerning) がある。どちらもすべての知覚で働く。目覚めの状態におけるヴィジニャーナ(分別知)は顛倒(てんどう)知(悪見)viparīta-jñāna、つまり無知である。それはいつも[自分意識(エゴ)・‘我身見 deha-ātma-buddhi ('I am this body'-idea)’に支配された]個人(ジーヴァ)と共にある。ヴィパシタ・ジニャーナ vispaṣṭa-jñāna(明智 clear knowledge)になると、ソレはブラフマンである。誤った知識が完全に無くなると、睡眠中でのように、カレは純粋なプラジニャーナ(正智 prajñāna)だけに留まる。それが正智に満ちている prajñāna-ghana (nothing but knowledge) ということである[ghana には full of の意味があり、また killer, destroyer という意味もある。悪見の killer, destroyer であれば正智・真智になる]…『トリプラー・ラハスィヤ tripurā-rahasya』やほかの聖典は、二つの相次ぐサンカるパ saṃkalpa-s (考え事)の間の空白[「イダム idam(これ=対象)」と結び付かない]純粋な「アハン aham(私 'I')」であることを指摘している…[だから、目覚め時に考え事という分別知識を追いかけるのではなく、考え事と考え事との空白に気づくトレーニングにこそ励むべきであり、最大のチャンスである睡眠から目覚めへの移行直前の純粋な「アハン aham(私 'I')」の覚智に全力を尽くすべきである。

      道元禅師の身心脱落・脱落身心経験は、ラマナマハルシの説明にある単独(無分別)三昧(ケーヴァら・サマーでぃ)であり、自然(じねん)三昧(サハジャ・サマーでぃ)ではなかったろう。日本に帰国してからの言行録にそれが散見される。しかし修行者の大半は道元禅師の境地にまで達していない。

      以上のことを自覚して、ヨーガ・スートラ yoga sūtra 1.2 を実現(現成)するために、ヨーガの修行者はその他の各節(スートラ)も学修しなければいけない、ということである。知的な学修を含むものが苦手という人は、ひたすら "I AM" 実修図説に取り組むのも可である。道元禅師の「身学道」とかティクナトハン師のインタービーイングをもって良しとする人達は、まだヨーガ・スートラ yoga sūtra 1.2 とかラマナマハルシ学修に向くほど成熟していないので、自分が本音で取り組める修行法を日課とするのがよいだろう。

      ヨーガ・スートラ yoga sūtra で言う心の活動 citta-vṛtti は、『唯識三十頌 02』の三能変(異熟・思量・了別境識)に対応する。ヨーガ・スートラ yoga sūtra そのものが心の分析をしているが、唯識学派の心の分析からも学ぶことは多いので、三能変が唯識性に定住する(住唯識)=真実在安住 ātma-niṣṭhā आत्मनिष्ठा を果たすまでは、これらの二つの経典を学修し続けるのが望ましい。

      しかし、自分意識の発見と解消のためには、心の分析よりも、何よりもまずアートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)である。その実修の具体的ヒントはラマナマハルシ語録のあちこちに出ているが、“私は誰か?Who am I?”からの次の教えは具体的である。
      [Who Am I? Sadhu Om 英訳版 06] The mind will subside only by the enquiry 'Who am I?' The thought 'Who am I?' (which is but a means for turning our attention Selfwards), destroying all other thoughts, will itself finally be destroyed like the stick used for stirring the funeral pyre. If other thoughts rise (thereby indicating that Self-attention is lost), one should, without attempting to complete them, enquire 'To whom did they rise?' (The means to set aside thought-attention and regain Self-attention is as follows:) At the very moment that each thought rises, if one vigilantly enquires 'To whom did this rise?', it will be known 'To me'. If one then enquires 'Who am I?', the mind (our power of attention) will turn back (from the thought) to its source (Self); (then, since no one is there to attend to it) the thought which had risen will also subside. By repeatedly practicing thus, the power of the mind to abide in its source increases. When the mind (the attention), which is subtle, goes out through the brain and sense-organs (which are gross), the names and forms (the objects of the world), which are gross, appear; when it abides in the heart (its source, Self), the names-and-forms disappear. Keeping the mind in the heart (through the above-described means of fixing our attention in Self), not allowing it to go out, alone is called 'Selfwardness' (ahamukham (aham-mukham)) or 'introversion' (antarmukham). Allowing it to go out from the heart alone is called 'extroversion" (bahirmukham). When the mind thus abides in the heart, the 'I' (the thought 'I', the ego), which is the root of all thougts, having vanished, the ever-existing Self alone will shine. The place (or state) where even the slightest trace of the thought 'I' does not exist, alone is Self (sva-rūpam). That alone is called 'Silence' (maunam). To be still (summā-iruppadu) in this manner alone is called 'seeing through (the eye of) knowledge' (jñāna-dṛṣṭi). To be still is to make the mind subside in Self (through Self-attention). Other than this, knowing the thoughts of others, knowing the three times (past, present and future), knowing events in distant places--all these can never be jñāna-dṛṣṭi.

      “私は誰か?”という探求によってのみ、心は消退する。「私は誰か?」[という問いとて]も思いであるが、私達の注意をセルフへと向かわせる手段であり、他のすべての思いを破壊し、ちょうど燃え盛(さか)っている薪(たきぎ)をかき回すのに使われる棒きれが、最後にはそれ自身燃えつきてしまうように、その探究心も最後には破壊されるだろう。[“私は誰か?”という探求をしている間に]他の考え事が起こってきてセルフへの注意力が失われたなら、それらの考え事を[追い続けて]仕上げるのをやめ、“その思いは誰に起こったのか?”と自問し[て、“私は誰か?”という集中対象にもどるようにし]なさい。[“私は誰か?”という集中の最中に]どんなにたくさんの考え事が出てきてもかまわない。考え事を手放してセルフへの集中を取りもどす方法は次の通りである。一つ一つの思いが出てくるごとに、“その思いは誰に起こったのか?”と油断なく自問するなら、その問いに対して出てくる答は“私に”だろう。そこで“私は誰か?”と自問するなら、心の集中力は考え事からその源であるセルフにもどって行くだろう。そうするとわき上がってきた思いにかまってくれる者がいなくなるので、それは[その出所に引き下がって]平静になるだろう。このようにして繰り返し修習(しゅじゅう)するなら、心は[活動状態から]その源に[もどって](じゅう)する(すべ)に長(た)けてくるだろう。“精妙な心の集中力が脳と感覚器官を通じて外へ出て行くと、粗雑な[次元の分別上の]ナーマ・ルーパ(名と形 nāma-rūpa)の対象世界が[知覚され]現れる。[しかしそのエネルギーが]思いの源セルフであるハートに住(じゅう)するなら、名称と形態は消え失せてしまう。上述のセルフへの心の集中力の定まりという手段によって、心を外に向かわせずハート(フルダヤ)に留めておく事だけが、セルフ志向(アハン・ムか)とかアンタル・ムか[・ヴルッティ](内向活動。回光返照と呼ばれる。心をハートから外に出してしまうのは、バヒル・ムか[・ヴルッティ](外向活動)と呼ばれる。心[の外向活動がやんでそれ]がそのようにハートに住(じゅう)するなら、あらゆる考え事の源である「私(アハン)」という思い・エゴは消え、常に実在しているセルフ(アートマン)が輝き出すだろう。「私(アハン)」という思いのいささかの痕跡すら存在しない場ないしは状態こそがセルフである。それだけが寂黙(マウナ)と呼ばれる。このようにして寂黙であること(スンマー・イルッパドゥ)こそが、真智の眼(ジニャーナ・ドルシティ)ないしは真智をもって観ることと言われる。寂黙であることとは、[思いの出所の探究という]自己集中によって心を内向化してセルフに安住させることである。これ以外の事々、たとえば他者の心の考え事を知るとか、過去・現在・未来という三世(さんぜ)を知るとか、遠隔地の出来事を知るとかなどは、決して真智の眼(ジニャーナ・ドルシティ)とは言えないものである。
    2. bhagavad-gītā 2.71 (A, B)

      (無欲無我 without 'my' and 'I') विहाय कामन् यः सर्वान् vihāya kāmān yaḥ sarvān すべての欲望捨てている पुमांश्चरति निःस्पृहः pumāṁścarati niḥspṛhaḥ 人は愛着無く行為 निर्ममो निरहङ्कारः nirmamo nirahaṁkāraḥ 私有欲も自意識も無い स शान्तिमधिगच्छति sa śāntimadhigacchati その人寂静に達する
      Having cast away all desires, that man who goes without longing, devoid of 'I' and 'mine' - he doth attain peace.

      無執着・無我で寂静に達するのは、ヨーガ・スートラ yoga sūtra 4.30 の煩悩業の終止と同じ趣旨である。
      YS 4.30 無執着識別智から 煩悩業は終止する From that [dharma-megha-samādhi] (tatas) [all] afflictions [of this life] (kleśa) and the fate [as the certain consequence of acts accumulated till this moment from previous lives] (karma) come to an end (nivṛttiḥ).


    3. 般若心経

      色即是空、空即是色
      さて、此の空というものも、色が滅して、空となりたる程に、空も色に異ならぬぞ。是(かく)の如く言うも、又、色と格別なる物を、一つになしたるようにして、隔てが有るに似る間、其の色空の二見を離れしめんが為に、色即是空、空即是色なりと、説き給う。即と言うは、やがて*と言う心なり。色の当体が、其のままやがて空なり。空の当体が、そのまま色なり。空を離れて、色無し、色を離れて、空無し。水と波の如し。波即水なり、水即波なり、更に二つ有る事無し。只一心実ばかり。是は先の五蘊の中の色蘊の一つを挙げて、空に異ならずと、説き給うなり。
      * やがて=軈ては「本来は、間に介在するもののないさまをいう。」(『広辞苑』)であって、「とりもなおさず。すなわち。時を移さず。すぐさま。ただちに。そのまま。」(『広辞苑』)の意味。
      色身が滅して空となることの真義は、色身を知覚認識する者が私の 'my' 知覚認識から私 'I' に回(廻)光返照し私-私 'I-I' = セルフ Self なる純粋識 cit चित् (pure consciousness) に帰還すること帰入とは?意識→純粋識帰還トリップに必要な旅装(食・衣・住)とアびヤーサ意根識意根識と散乱意識→純粋識と在家の問題Self が旅に出ても self になって帰るわけでない帰還の旅立ちであり、私の 'my' 知覚認識という虚出没を離却することである。しかし自然(じねん)の解脱境(サハジャ・サマーでぃ sahaja-samādhi सहजसमाधि)を確立した場合には、真実在安住 ātma-niṣṭhā आत्मनिष्ठा のまま色身(物質界)を真実在 sat (Self) と不二(不異)として知覚認識できるので、空も色に異ならない空即是色なのである。「色即是空空即是色」をとやかく説明したとて、私-私 'I-I' = セルフ Self の覚智体験が無ければ、結局はなんの悟得も無いので、空論に終わるのが落ちである。「即」とは「軈(やが)て」=間に介在するもの無くそのまま、という意味であり、Self が虚出すれば self であり、self が虚没すれば Self であるが、自然(じねん)の解脱者には二つのセルフがあるのではなく、真実在 sat (Self) 一者のみである。一休般若心経を YvGlossary で読み解くから)

      『般若心経』は読経用の経典でもなく、(くう)の説明経典でもなく、また真言をギャアギャア唱えるための経典でもなく、求道者求道者の三要件求道者と社会・社交孤高・孤独ヒトリ私 'I' に佇(ただず)むたる者が、般若波羅蜜多行 prajñāpāramitā-caryā の実修をして般若波羅蜜多 prajñā-pāramitā を得て菩提(彼岸)に到ることができることを指摘した指南書(我楽多経典)である。

      ところが『般若心経』は、般若波羅蜜多行 prajñāpāramitā-caryā がどういうものかを明示していない。これが『般若心経』をややこしくしてきた最大原因だろう。行法の明確な説明をするかわりに、空については冗長な説明をしているので、ここに般若波羅蜜多行のなんたるかを理解するヒントがある。空という用語が出る直前に五蘊という用語が出ているので、それもヒントになる。サンスクリットと共に関連部を出してみると:
      व्यवलोकयतिस्म vyavalokayatisma 照見したのだ पंचस्कंधाः paṁca-skaṁdhāḥ 五蘊有りと तान् tān それらを च ca そして स्वभाव svabhāva 自性 शून्यान् śūnyān 空なりと पश्यतिस्म paśyatisma 見た
      ということなので、般若波羅蜜多行の実修は、求道者の身心は五蘊で構成されていることを照見せしめるということだろう。そして五蘊の自性が空であることを悟得せしめるということになる。

      仏教に限らず、古代からの宗教修行においては、用語や分類法に趣きの違いはあれ、たいていは求道者の身心を分析あるいは洞察できるようなシステムになっており、身心という現象から、その源の現象源--神、仏、ブラフマン等々どのような名であれ--覚智するように導かれる。神人合一とか解脱とか菩提・涅槃とかあれこれに言われようと、現象と現象源の究極の仕切りは私 'I' という思い ahaṃkāra; aham-vṛtti (I-making, I-thought, ego) である。それの発見と解消が空であるから、は empty of 'I(-ness)' (ego) であるはずで、空においてはあれも無くこれも無く、無いことも無いなどと、ややこしい説明をする必要は無かったのである。

      では、empty of 'I(-ness)' (ego) の証拠はどうなのか?求道者はそれをどのように自己確認できるのか?この点についても『般若心経』は不明確である。ヨーガ・スートラ yoga sūtra だと、それを次のように明確に説明している。
      1.02: ヨーガとは 私心の 活動終止 Yoga [or union] (yogaḥ) is the complete cessation (nirodhaḥ) of 'my' thinking (vṛtti) of 'I' mind (citta). [Thence I AM without 'Who am I?'.]
      1.03: 無私の時 見る自分無く 無我に安住 Then (tadā) the Seer (draṣṭuḥ) abides (avasthānam) in Itself (svarūpe) [or Eternal Bliss I AM].
      『ばガヴァド・ギーター bhagavad-gītā』ではあちこちで説明しているが、2.71 に明確な用語が出ている。この節の全体を再度引用すると:
      विहाय कामन् यः सर्वान् vihāya kāmān yaḥ sarvān すべての欲望捨てている पुमांश्चरति निःस्पृहः pumāṁścarati niḥspṛhaḥ 人は愛着無く行為 निर्ममो निरहङ्कारः nirmamo nirahaṁkāraḥ 私有欲も自意識も無い स शान्तिमधिगच्छति sa śāntimadhigacchati その人寂静に達する
      Having cast away all desires, that man who goes without longing, devoid of 'I' and 'mine' - he doth attain peace.
      この中の nirahaṃkāra が empty(ness) of 'I(-ness)' (ego) に該当する。その前の nirmama は empty of my ~ (mine) に相当するだろう。以上からも、空は無心無我と同等の用語であり、『般若心経』の「空中」は「無心無我においては」と理解できる。empty of 'I(-ness)' (ego) の証拠は到彼岸=真実在安住 ātma-niṣṭhā आत्मनिष्ठा を果たした者には無用であるが、求道者が知性で理解するには、ラマナマハルシの次の教え[→生き方]が役に立つかもしれない。
      質問:最高の生き方はどのようなものですか?
      答え:それは真智者であるか非真智者であるかによって異なる。真智者にとっては真実在 sat (Self) と異なるものは何も無い。万物・万象がセルフの内にある。[非真智者が]世界が有り、その中に身体が有り、そしてその中に自分が宿っていると思うのは間違っている。真理が覚智されれば、宇宙もその彼方にあるものも、セルフの内にあるだけとわかる。[知覚認識される]外観は人の視覚によって異なる。視覚は眼を通じて得られる。眼がどこに位置しているかが問題である。肉眼で見れば、対象も肉体(物質)次元である。心眼で見るなら、対象も精神次元である。もし眼がセルフ真智 jñānaになるなら、ソレは無限なので、眼も無限にな[り無限のものを見]るから、セルフと異なるものを見ることは無くなる。
      質問者がマハルシに謝辞を述べると、カレは常にセルフに安住することが最高の感謝なのだと告げた。
      Talks with Sri Ramana Maharshi No. 106 (29th November, 1935)
      D. : What is the best way of living?
      M. : It differs according as one is a jñānin or ajñānin. A jñānin does not find anything different or separate from the Self. All are in the Self. It is wrong to imagine that there is the world, that there is a body in it and that you dwell in the body. If the Truth is known, the universe and what is beyond it will be found to be only in the Self. The outlook differs according to the sight of the person. The sight is from the eye. The eye must be located somewhere. If you are seeing with the gross eyes you find others gross. If with subtle eyes (i.e., the mind) others appear subtle. If the eye becomes the Self, the Self being infinite, the eye is infinite. There is nothing else to see different from the Self.
      He thanked Maharsi. He was told that the best way of thanking is to remain always as the Self.
      このように知的に理解しても、empty of 'I(-ness)' (ego) の確証を求道者は持てないので、やはり実感としてはアハンスぷ−ルティ aham-sphūrti (「私 'I'」の鼓動)・アハンスぷラナ aham-sphuraṇa (「私 'I'」の輝現)の体験を持つのがベストだろう。このような私 'I' という思い ahaṃkāra; aham-vṛtti (I-making, I-thought, ego) の自己確認について、求道者が自証できる教えはあまり公にはされていない。文字で記録される前は、グルが求道者にガイダンスを与えていたものと思われる。『般若心経』を理解・実証する上で、「私 'I'」の覚智の具体性は不可欠となる。